遠慮がちに扉が開く音がした。あまり人のこないこの部屋の扉が開けられる時刻は決まっている。その数回の時刻のどれにも当てはまらない扉の開閉音に、私は小さく微笑んだ。
「おかえりなさいニール」
「おう・・・ってよく俺だって気づいたな」
「においがしたもの」
「えっ俺そんな匂う?」
「そういう意味じゃないわよ」
ニールが慌てて自分の匂いをかぐ気配を感じ私は思わず笑ってしまう。
「それにニールのにおい、私好きよ」
短い沈黙が流れた。私は変な事を言ったかな、と思って少し首をかしげた。









*








扉をそっと開けた。光のない彼女にいきなり開けて刺激を与えてはならないと思ったが、その思考は軽く裏切られる。
「おかえりなさいニール」
既に目を瞑ったままこちらを向いていた和泉に少なからず驚いた。
「おう・・・ってよく俺だって気づいたな」
「においがしたもの」
「えっ俺そんな匂う?」
慌てて服のにおいをかぐ。そんな汗かいたっけか、俺。
「そういう意味じゃないわよ」
俺の慌てた空気を感じたのだろう、はくすくすと笑った。混じりけの無いその微笑みは、俺が見慣れたものだ。
「それにニールのにおい、私好きよ」
五感のうち、どれか一つを失えばそれを補うために他の感覚が研ぎ澄まされると聞いた事がある。なら自分に染み付いた硝煙の臭いも、血の臭いも。は感じ取ってしまっているのだろうかと思うと酷く恐い。感じ取られることが酷く恐い。彼女の前の俺だけでも綺麗なままでいたいのだ。彼女の記憶に残った、少年の頃の純粋な自分で居たいのだ。









*








ニールの動く気配がして、私はそれにそって首をめぐらす。
「花持ってきたんだけど・・もう綺麗なの活けてあるな」
「でしょう?何時も下の階の奥さんがかえてくれるの。どうせ見えないからいいって言ったんだけど、あるのとないのとは違うものよって言われて」 それでご好意に甘えているんだけれど。下の階の奥さんの声はとても綺麗で、親切をやいてくれる手はとても優しい。ニールの母親のようだ、といつも思う。
「その花、何色?」
「白。バラだな。結構珍しい形かも・・って俺が花詳しくないからかもしれないけど。あ、棘があるから触るなよ」
「うん、分かった。ありがとう」
ゆっくりと花瓶のあるほうに目を向けて、瞼を開けた。そのまま顔をニールに向けて、手を伸ばす。手は柔らかな弾力を感じて、それからゆっくりと手全体が包み込まれる暖かさを感じた。この暖かさが、私はとても好きだ。









*








「花持ってきたんだけど・・もう綺麗なの活けてあるな」
俺が花瓶のあるほうへ移動すると、もあわせて顔を向ける。音を感じているのだろう。
「でしょう?何時も下の階の奥さんがかえてくれるの。どうせ見えないからいいって言ったんだけど、あるのとないのとは違うものよって言われて」
いい人だな、と答えようとしたが、言葉にならなかった。『どうせ見えないから』。その言葉が酷く自分にのしかかる。守れなかった、と小さかったあの頃の自分を責めても何も変わらない。何も変わらないって知っているのに、俺は今何をしているのだろう?
「その花、何色?」
色さえも分からないのに活けてある花は酷く残酷なものに感じられる。はどんな気持ちで、毎日見えもしない花を隣で生けられているのだろうか?血のような赤いバラは吐き気がするほど赤く、俺は嘘をついた。
「白。バラだな。結構珍しい形かも・・って俺が花詳しくないからかもしれないけど。あ、棘があるから触るなよ」
「うん、分かった。ありがとう」
ゆっくりと花瓶に顔を向け、静かにその瞼が上がる。そして瞳はそのまま俺を映し出した。見えていないはずなのに焦点のあったそれは、俺の罪の意識を増幅させた。ゆっくりと伸びる手は、俺の頬に当たる。静かに微笑むの顔を俺はまともに直視できない。革手袋を外した手でゆっくりとそれを包み込む。小さく暖かい手は俺にとっては酷く 悲しい。
「・・
「うん?」
「俺、暫くここに来れないと思う。・・・これまでもあんまし来れなかったけど、もっともっと来れなくなる」
ごめん。お前を放ってどこかにいく俺を許さなくていい。赦さなくていいから、どうか忘れて欲しい。血にまみれたこの手じゃお前を抱きしめることなんてできないよ。これからもっと人を殺めに向かうこの手じゃお前を救うことなんてできないよ。ごめんな、ごめんな。引き止めないでくれ。突き放してくれ。俺のことなんか忘れて、そして下の階の奥さんにでもいい人を紹介してもらって 幸せになってください。どうか君だけは 幸せになってください。 お前には幸せになる権利があるよ。 あるから。 道を違えた俺のぶんまで









*








ごめんなさいニール。貴方に謝らなくてはならないことがあるの。私は嘘をついている。ごめんなさい。ごめんなさい、貴方が今まで何をしてたか、私ほんとは察しがついてる。新聞配達とかしたり、最近知り合った友達の店を手伝ってるだなんて、全部嘘でしょう?だってそんなことしてるなら、貴方はもっと私に会いにくるものね。私がいいって言ってもきっと毎日来るものね。
貴方はこれからどこへ行くの?きっと私の手の届かないところで、貴方なりに何かを成しにいくのね。もう会えないのかな。私は止めるべきかな。 ここにニールが来るたびに何度も言おうとしたこの台詞はまだ喉から先に出ない。
『私ほんとは見 え て る の  よ 』。 私本当は見えているの。今ニールがどんな顔してるか分かるよ。そんなつらそうな顔しないで。そんなつらそうな顔しながら そんなに優しい声を出さないで。ねえ痛いの?私は貴方を救えないの?世界に自分ひとりしかいないみたいな顔しないで。無理やり笑わないで。なんのために私は生きているのだろう。なんのために嘘をついてまで、貴方がここにくる口実を作ってつなぎとめているんだろう。ごめんね。ごめんね。うそつきな私は貴方を止められない。
私はニールの瞳に映る自分を見据えた。泣くな。泣くな。笑え。私は泣いちゃ いけない。私のすきだったあの綺麗な瞳のエメラルドは鈍い灰色にしか見えないけれど。(色を無くしたこの世界は光を無くした世界と一緒だからなんて言い訳は通用するはずがない)
酷く黒く見えるこのバラが 白いわけは無い。


















嘘をつかせてごめんなさい
何も言わないでごめんなさい









「いってらっしゃい」








薔薇




2008/05/04