最後にペンケースをカバンにしまって席を立って、前の席に座る背に「わたし先帰ってるね」と声をかけた。片割れの兄は振り向いて、「帰り道分かるのか?」と尋ねる。は振り向かずに「多分ねー」と言って教室を出た。




うーん、と背伸びをした。田舎は空が高いのかと思っていたけれど、電線に区切られた空は先日までいた町のものとそう変わらない。寧ろどこも寄っていくところも思い当たらず、行動を制限される分若干窮屈な気がした。とりあえず、足の向く方向に行ってみようかな、迷子になっても多分人に聞けばわかるよね、と思ったが今日はなにやら不穏な事件が起きていた事を思い出す。どうしようか。帰ろうか。教室でパトカーの音を聞いたけれど、正直殺人事件なんてテレビ越しの世界なもんだから実感が沸かない。もしものことがあったら、と考えるほどは警戒心の強い人間ではなかった。やっぱり少し探検して帰ろうかな。探検、なんて悪くない響きだ。何も無いとはいえ見知らぬ町を歩くのはつまらないことはないだろう。


「あ、あのー…」
かなり近くから人の声が聞こえて、少なからずびっくりして振り向いた。同じ制服を着て黄色の自転車に跨った男子生徒がいた。
「月森、だよな?」
名前を言い当てられた、ということは同じクラスなのだろうか。無言で頷くと少年は頭を掻いてばつの悪そうな顔をしている。
「…あっ、気づいてなかった?俺さっきから呼んでたんだけど…」
「え、あ、ごめん」
実はさっきから誰かが誰かを呼ぶ声は聞こえていた。だけど転校初日の女子生徒に易々声をかけて来る男子なんて居ないと思っていたので、自分ではないと判断して振り向かなかったんだけれど。そんなの思考を他所に男子生徒はほっとしたのか人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「んだよー、無視されてんのかって焦ったじゃねえか。そういや何で一人なんだよ、兄貴は?」
「お兄ちゃんなら女の子二人と帰ったみたい」
「一緒に帰んねえの?」
「だってわたし、あの二人よく知らないし」
「そりゃ転校してきたばっかなんだからあたりまえだろ」


何で?これから知っていくもんなんじゃねえの?と男子生徒は首をかしげた。は返答に困る。何で、って…。既に形成された集団の中に入ることは容易ではない。波風立てずに上手く入り込むためには、人嫌いの無い笑顔を浮かべて他愛も無い話を持ちかける。特に奇数の人間の集団に。快く話に応じてくれたなら交渉成立。メルアドでも何でも聞けば晴れて集団に溶け込める。そういう技術を会得していて、尚且つ今まで上手くやってきたにとって、こっちが何で?と聞きたい気分だった。勿論聞かないが。もうクラスの中でメルアド交換もして、休み時間他愛も無い端的に言えばどうでもいい話題で盛り上がっている「ふり」のできる人材は揃えてある。この分だと一年は平穏に暮せること間違いないだろう。なのに。


「…んあー、あのさ」
男子生徒はまたもやばつが悪そうに視線を泳がせた。首をかしげて続きを促すと、恐る恐ると言った体で口を開く。
「俺のこと、知ってる、よね?」
ううん、と首を横に振ってしまった、と思った。ここまでの会話でクラスの男子だということは想定できてたのだから、もう少し上手い誤魔化し方もあったのに。けれどこの男子生徒からはそんなことが上手くできなくなるような空気が発せられているようには感じた。男子生徒はことさらショックを受けたようで「えええー!」と叫んだままがっくりと首をうな垂れた。


「俺…月森妹の隣の席なんですけど…」
「え!、ごめん、わたしあんま見てなくて」
一応事実である。とりあえず女子から固めていくべきだろうと今日は男子に目もくれていなかったし、第一目立つという風貌ではない。確かに今日見た気もしないではないが多分一言二言しか交わしていないから特別印象もないのだ。
「見てないって…隣じゃん…」だがしかし男子生徒のショックは大きかったようでは軽く焦る。調子が狂うなあ、と思った。



「花村陽介。覚えてね、ホント」
「あは、はあい」
へら、と笑うと男子生徒もへら、と人懐っこい笑みを浮かべた。改めては男子生徒、花村陽介を見る。犬っ気のある茶髪、オレンジ色のヘッドホン、高くも低くも無い身長。…まあ、一目では覚えないかな…という感想は勿論口には出さない。けれど出したところで彼は不快感を感じないだろうなあ、とふと思った。


「じゃあさ、月森妹、」
「あ」
「ん?」
突然遮ったに花村陽介はまたもや首をかしげる。少し犬みたいだ、とは思った。
「妹、っていうのやめてくれない?」
「え、あ、そうか。ごめん、じゃあ…」
、でいいよ。お兄ちゃんも同じ苗字だからカブると二人一緒だとどう呼んだらいいかわかんなくなるでしょ」
「ん、ああ、じゃあって呼ぶわ」
なるほどな、と大真面目な顔で頷いた花村陽介に思わず口が滑る。口が滑るというか、別に滑らしてもいいかな、という気持ちがした。
「…ってこれ男子とナカヨクなるための私ならではの必殺技なんだけどねー」
「…それ俺に言っちゃだめなんじゃないの?」
「うん、あっはは」
「警戒心を持たれていないと喜ぶべきなのか男だと認識されていないと悲しむべきなのか…」


面白いな、この子。堪えきれずはついに噴出した。どうやら想像していた明日よりも面白くなるのかもしれない。もうかなり前に捨てていたままの期待がむくむく沸きあがる。悪くないかも、とは自然と口角が上がるのを止められなかった。











piacere









2008/09/23