しばらくもしないうちに後ろの車のドアがあいて、人が降りてきたのがサイドミラーに映った。私もシートベルトを外してドアをあける。後ろに回って初めて分ったことだけれど、わたしのデミオはエアバッグは開かなかったものの見事に右後ろの角っこがへこんでいて、あ、あーあー・・と眩暈がしそうになった。だって二週間前に買ったばっかだもん。ローンも普通に払い終えてないよ。こんなことだったら車かわずにバイクかったらよかったかなあと思うけれどバイクなんてちょっと小さい車が追突してもふっとんじゃうにきまってるからやっぱりあんな恐ろしいの乗れない。 「すいません・・・完全に俺の不注意です」 という声がして私は顔を上げた。初めてわたしの車に衝突してしまった人の顔を見た。実を言うとドン、と衝撃がしてわたしのおしりが数センチ座席から浮き上がった直後から、誰だテメーわたしのデミオにぶつけやがってローン払い終えてないんだぞ免許とりたてなんだぞー!この、ばか、ばかやろうわたし会社に遅れるじゃないか遅れたらまたあのいやみなセクハラっぽい課長からくどくどいわれてそれからお茶が不味い!とか言われてそれでそれで、とか考えていたので、半ば反抗的な目でキッと睨みつけるつもりだったのに、そんなことは直ぐに忘れてしまった。 その男の人は、背がすらっと高くて細くて足が長くて、すごく優しい顔をしている。黒のスーツは例えばアオヤマとかそういう安売りとかCMとかする店で売ってるものじゃなくて、とても高くていいものだということがわたしにも一目でわかるくらいだ。車もそうだ。これだけ連ねればいいとこのぼっちゃんがわたしの車にぶつけやがって!べんしょうしろ!五倍増しでな!とか思うのだけれど、明らかに、「まずいなあ」というばつの悪そうな顔をして、頭を掻くその姿は、なんだかそんな怒りをするっと消してしまうものだ。多分、こんないい身なりをしてても顔が、僕苦労してるんですよ、みたいないい人の顔をしているからだ。しかもよく見ると綺麗な顔にちょっとクマができてて、何だか彼は日々の激務でここ最近体重が三キロほど減ってしまったような気がする。初対面だけど。 「怪我はなかったですか?」 声は予想よりちょっと低めで、でも聞くひとを安心させるような声だ。 「あっ、え、あ、はい」 「そうですか、よかった」 見る物全てをひきつける笑顔ってこういうのをいうのかなあと思った。三両車線なので対向車線までだいぶ距離が在るけど、これが細い道路とかだったら対向車線の人この笑顔見えたかもしれない。そしたら多分見とれて、そんでアクセルとブレーキ間違っちゃったりなんかしちゃったりしてそしたら事故だよ、玉突き事故だよ。 男の人は「本当にごめんなさい。ちゃんと弁償しますから」と申し訳無さそうに笑って頭を掻いた。頭を掻くのが癖なのかな。とても雰囲気が大人びているのに、そういう子供のようなしぐさをするのは意外で、ああ、こういう人がモテる人なんだなと思う。 「あ、あの」 「はい?」 「わ、わたしくちうらあわせますよ。あの、わたしが急にとまったからぶつかったとか、警察に言えば、その」 「・・・なんで口裏を合わせる必要が在るんですか?」 男の人はちょっと眉を潜めた。すうって二本くらい眉間に薄い線がはいって、それさえも綺麗だ。 だってこんな、いい身なりの癖に苦労してるかんじのきっととても人間のよくできてる人の人生を、大学だってちゃんと卒業したのによくわからない会社に流れされるまま入って上司のお茶組んでセクハラ課長に不味いって言われてヘラヘラ笑ってる非生産的なOLが潰してしまっていいわけがないじゃないですかっ。大丈夫です、大学の時散々バイトしたから貯金はけっこうあるつもりだし車の修理も友達が整備士してるからちょっとおまけしてくれそうだしそもそもそんなバカ高いことはないだろうし、だから大丈夫なんでわたし罪被るんでホント!勘弁してください!なんていえないので黙っていると、男の人はわたしをじっと見つめている。わたしはぱくぱく口を動かして、これ自分で金魚みたいだかっこわるい!と思いながら「だめですだめですとにかくだめですそんな貴方の人生をわたしごときが傷をつけてしまっては!」と意味の分らない事をまくしたてる。男の人は何も言わずにわたしを見ている。遠くからファンファンとサイレンの音がした。あ、あーあ・・・ なんだかこっちが申し訳なくなってくる。ほんとすいません、もっと前との車の車両間隔つめとくべきでしたほんとすいませんわたしがわるいんです!って思ってみてもパトカーがだんだん大きくなってきてサイレンも大きくなってくる。歩道を歩く人達の何だろう、という視線を感じる。 「・・本当はこんなことしたくないんだけどなあ」 ぼそっと男の人が呟いた。見上げたけれど、男の人は近づいてくるパトカーを見つめていたので、聞き間違いかもしれなかった。警察の人がパトカーからおりてきて、わたしはむしろ追突されたほうなのに微塵の怒りも感じずただひたすらなんだか申し訳ないなあとか思っていると、男の人は自分から警察の人に近づいていって、そっと耳打ちした。警察の人は一瞬怪訝そうな顔をして、それから、ああ、と何かを思い出したふうな顔をしてそれから男の人に丁寧に頭をさげ、それから無線を口に当てて回れ右をしてそのままパトカーにのりこみ撤収・・・え、あ、あれ?何が起こったんだ?わたしはぽかんとするしかない。もしかしてあれだろうか。応援要請的なあれだろうか。レインボーブリッジ封鎖的なあれだろうかと思ったけれど、たった一台のパトカーは遠のいていくばかりだ。 「これ、俺の連絡先です。直ぐにでも弁償させていただきますので、そちらの連絡先も教えていただけますか?」 「え、はい?」 慌てて口を閉じて、もう小さくなったパトカーから男の人に視線をうつせば、男の人はくすくすきれいに笑うのでわたしは顔が赤くなるのを感じる。指の長い、こつこつした、でも綺麗で、細かい傷がいっぱいの手で名刺を渡された。真っ白でつるつるした紙に小さく名前とどこかの住所が書いてある。わたしの知らないところだ。 「沢田綱吉。俺の名前です」 少しだけ低くて少しだけ掠れた声で男の人は名乗った。やわらかそうな茶髪が風にゆれていて、空気の汚い国道の風が、彼の周りだけきれいなそよ風になったようだ。わたしは慌てて手帳を取り出して、もたもたと高校のときからちっともかわらないすごく馬鹿に見える字で自分の住所と名前を書く。ぴりぴり、と紙を破って手渡した。「ありがとうございます、」と沢田綱吉さん。「、さん」そう言ってわらった。 会社から家に帰ると、そっくりそのままわたしのデミオが家の前にとまっていて、びっくりした。買って直ぐに電信柱でこすった細かい傷も、今日出来た後ろのへっこみも見当たらない、新品だ。その二日後に私宛に小切手と沢田綱吉さんの筆跡と思われる手紙がとどけられた。小切手の0はわたしのみたことのない数で、昏倒しかけた。それは丁重におくりかえして、わたしの手元には赤いろうで封のされた沢田綱吉さんからの手紙だけが残っている。本当はデミオも返したかったけれど、通勤に困るのと沢田さんの困ったような電話口の声に半ば強制されてわたしのすむアパートの駐車場に落ち着いている。沢田綱吉さん、一体何者なのだろうか。あんな桁数の金額、わたしこれから一生見ることないだろうし一日で新品のデミオおくってくれるし警察は追い返してしまうし電話は国際電話だったし手紙はエアメールだったし。「なにものですか?」って聞けばきっとこたえてくれるような気がしたけど、わたしはデミオを返すか返さないかの二度目の電話っきり彼と連絡を取っていない。彼はきっと忙しいし、わたしもこう見えてそれなりに忙しいのだ。 あれきりデミオをぶつけることはない。もうすぐ免許もゴールドになる。大変嬉しい。マイデミオは新品同様に綺麗である。嘘をついた。一度電信柱でこすった。しかし二週間に一回洗車をする。お茶くみは卒業した。企画チームに入ることになった。大変嬉しい。彼氏が出来た。いいやつだ。もしかしたらわたしはこいつと結婚するのではないかとおもう。いいことずくめで、きっと沢田綱吉さんは神様だったのだなあ、とわたしは思う。この場合、どこに向けて祈ったらいいのだろう。神様からの手紙は、今も綺麗にそのまま戸棚にしまってある。 国道ゴッドファーザー
2008/08/04
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